東洋医学と西洋医学は出会えるか?

一昔前には、前近代的な迷信医療、或いは科学的根拠の薄弱な民間療法であるかのような不名誉なイメージを持たれていた漢方や鍼灸等の東洋医学も、最近ではようやくそのようなイメージを払拭し、市民権を取り戻しつつあるようです。

街中の漢方薬局や鍼灸治療院も中々盛況なようですし、テレビや雑誌などの情報媒体においても、東洋医学を積極的に取り入れた診断や治療を行う西洋医が、「名医」として頻繁に登場している様は、まさに隔世の感があります。

もっとも、それは明治政府の国策によって壊滅寸前に追い込まれた東洋医学の復興のために多大な苦労をされた先師先達(漢方では大塚先生や矢数先生などが代表的でしょう)に負う処多大でありましょうが、一つには、現代医学が外科手術や感染症治療の面で大変な優位性を獲得したとはいえ、現代という時代そのものが生み出す種々の慢性病にはあまり効果的でないばかりか、侵襲的医療の進歩に伴って、多くの弊害が目立ってきたことも、伝統医学復権の原動力の一つとなったと言えます。

その流れ自体は真に歓迎すべきものですし、西洋医学にも東洋医学にも、それぞれ一長一短がある訳ですから、住み分けによって、より質の高い安全な医療が提供されることを願うばかりです。

しかし、現状を見る限りでは、そう安心してばかりもいられないようです。

まず、第一の問題は、日本では体系的な東洋医学が、医学部や薬学部において学べないということがあります。勿論カリキュラムの一部に東洋医学を取り入れている所もあるにはあるのですが、全体としてみれば圧倒的に数が少なく、しっかりとした中身のある東洋医学を学生に教授できる人がほとんど居ません。

実際に東洋医学を用いていると称する医師は確かに少なくないのですが、そのほとんどは、医学部での教育を終了した後に、各人で習得された技能ですから、どうしても質的な不均衡が著しいのは避けられません。

しかし、日本では医師の資格は絶対的なものですから、にわか仕込みの耳学問を患者に適用しても、余程の医療事故が起こらない限りは、お咎め無しです。

西洋医学を修得するには猛勉強の末、医学部で6年間を過ごすことが前提になりますが、同様の修行期間を東洋医学の修得にも割く医師はどれだけいるでしょうか?

恐らく、ほとんどいないと思います。

もっとも吸収力のある若い時代を西洋医学の修得に当てた人にとって、その後に同じだけの情熱と時間を東洋医学に傾けるのが困難なことであるのは容易に想像できます。

また、医学部のような教育カリキュラムが整備された分野とは違い、東洋医学のカリキュラムはほとんど整っていません。

以上のような理由で、東洋医学がきちんとした内容で日本の正統的医療に取り入れられているとは言い難いのです。

東洋医学も、黄帝内経を源流とした膨大かつ精緻な体系を有する学問であって、一年二年の研鑽では自由に使いこなせるというレベルには到底到達出来るものではありません。

江戸時代の天才的漢方家永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん)は、著書『漫遊雑記』において以下のように述べています。

「古医道を学ぼうとするものは、先ず、傷寒論を熟読すべきである。その後に、良い師匠、良い友を選んで仕え、身近に、色々と試みて、五年から十年、沈研感刻して、休まなければ、自然に円熟するようになる。」

不世出の天才であった独嘯庵をして、“十年”と言わしめるほど奥の深いものを、製薬会社主催の講座に数回通ったくらいでものにすることなど不可能である事は明らかでしょう。

少し前は、東洋医学を標榜する西洋医というのは、西洋医学に限界を感じて東洋医学を取り入れるようになった場合と、あまりに腕が悪く通常の医療を提供しても閑古鳥が鳴くばかりで、客寄せの為に東洋医学の看板を掲げた藪医者の二つに大別されていたと聞いた事がありますが、これは現代においてもそれほど事情は変わらず、漢方診療を標榜する医院や薬局でも、相変わらず、証を無視した病名投与がまかり通っているのが現状です。

また、もう一つ重要な問題として、西洋医学と東洋医学は、その理論も思想も全く違うものであり、お互いの相違点から起こる矛盾をどのように取り扱うかという問題があります。

たとえば、西洋医学の基準となる身体観は、解剖学を基にした臓器配置が基準になりますが、東洋医学では経絡と経穴という、通常の解剖学では見出せない概念が基礎になり、それを同時にどのように扱うのかという主題に真摯に取り組んでいる方は決して多くはありません。

試みられているアプローチは、西洋医学の立場から見て、それらを解明しようとするものだけであり、そこには「東洋医学を西洋医学という高みから見下ろす」というニュアンスが内在しているように感じられます。

この辺りの思想的統合をおざなりにして実際の医療に応用するということは、結局は不定愁訴に無理矢理に病名を付けようという試みにしか過ぎないのではないでしょうか?

たとえば、東洋医学は、西洋医学では病因が把握できない不定愁訴には非常に有効な治法を有していますが、西洋医学の分析的手法を用いて的確な診断を下せない場合に、東洋医学を持ち出すとするならば、それは決して“融合”でも“統合”でも“結合”でもないでしょう。

また、西洋医学における診断と、東洋医学から出た診断とが、相反するものであった場合、自信を持って東洋医学の立場を支持できる程でないと、本当の統合医療はできず、単なるつじつま合わせにしかならないと言えます。

「両者の長所を併用」といえば、確かに聞こえは良いでしょうが、それは生易しいものではなく、大変な情熱で取り組まないと実現できるものではありません。

一度は「これこそが最高」という思いで取り組まないと、ひとつとして完璧にものに出来ないのは、医学に限ったことではなく、広くスポーツや芸能の分野にも共通しています。

そのような期間を経ていないものは、「統合」とは名ばかりの、半端ものの寄せ集めにしか過ぎないのであり、そんな凡医の所業は「統合」ではなく、「折衷」と呼ぶのが相応しいでしょう。

また、医学統合とは、お互いの方法、理論の不備を埋め、補い合うということだけでなく、共通の言語を確立するための模索であり、決して知識や技術の次元での接木をしようという試みに終わってはなりません。

本当の意味で、東洋医学と西洋医学が統合される日はいつ訪れるのでしょうか。

2007/04/10

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