“擬装”について…食品産業批判に対する疑問

ここ数年、食の業界を“擬装”の暗雲が覆っている感があります。

産地擬装から、賞味期限の改ざんまで、次々と明るみに出て来る偽装の数々には唖然とさせられます。

場末のスーパーマーケットでのセコい擬装なら未だしも、船場吉兆のような超一流の名店までが閉店に追い込まれる始末で、財団法人日本漢字能力検定協会が発表した2007年の世相漢字は「偽」…何とも日本人として空しい限りです。

もっとも、耐震擬装から政界の欺瞞まで、食品だけがその役割を演じたわけではありませんが、やはり一番注目を浴びたのは食品業界の“擬装”でしょう。

しかしながら、筆者は魔女狩り的に行われているような食品産業の擬装糾弾に何かヒステリックで異常なものを感じてしまうのです。

勿論、何時の世でも擬装など許されるべきではありませんが、昨今の報道と、それに対する市井の人々の単細胞な反応にもまた辟易させられます。

もっとも、私達が見聞きする報道の中の市民の声は、マスコミのバイアスが掛かっている筈であり、真っ当な意見を述べる賢明な方もいるのかもしれませんが、マスコミがそのような意見を望むからなのか、企業を批判する一方的な声ばかりが耳に入ります。

この紋切り型の声を多数派の意見として捉えるならば、筆者にはこのような擬装事件の真犯人は私達自身ではないかという気がして来るのです。

そもそも、世相漢字が“偽”となる位に擬装が横行しているのは、私達一人一人の心を反映したものに他ならず、消費者だけが被害者であるとは考えられません。

また、私達が自らの感覚を頼りに物事を判断するという主体的な姿勢を放棄して、思考判断を停止し、売り手から供給される情報に全ての真実を求めようという安直な考えを持ってしまったことで、売り手側に擬装を働かせる隙を与えているとは言えないでしょうか?

第二次世界大戦中、日本人は体制側が流す虚報に踊らされ続けましたが、この構図が官から民へ移行しただけで、本質的に何ら違うものではないのではという気がします。

戦時下のように判断材料が極めて制限されていた頃と違い、私達の生活に密着した健康情報位ならば、今日幾らでも判断の便となる情報は入手できるはずですし、私達はもっと賢くならなくてはなりません。

それ以前に、賞味期限にしろ、食品の産地擬装にしろ、知識ではなく私達の感覚で判断すべきもののはずです。腐っているものは食べれば判別が付くはずのものですし、牛肉ならオーストラリア産か国産か位の見分けが付くような眼と舌を養って欲しいものです。

ちなみに数年前の話になりますが、産地擬装がマスコミに取り上げられる以前に、近所のスーパーで明らかに擬装と思われる食肉を目にしたことがあります。国産牛と表示されていましたが、一応美食家を自負する筆者には、すぐにそれが外国産であることが分かりました。

そんな判別すら出来ない人達が中心となって、擬装事件に次々と判で押したようなワンパターンな批判を繰り返しているように思うのは筆者一人だけなのでしょうか。

もっと噴飯モノなのは、産地擬装や賞味期限改ざんなどの些細な問題ばかりが、さも重大な事件のように扱われているのに対して、私達の食卓に平然と届けられる“真っ当な”食品群の異常性と有害性を、知ってか知らずか、誰も問題にしないという点でしょう。

農薬まみれで恐ろしく栄養価の低い野菜類、発がん性が疑われる種々の食品添加物、ほとんどの加工食品に入っている“悪魔の白い粉”白砂糖、薬漬けの牛から搾り取られる牛乳…と、どれも食養生の知識を少しでも持つ者ならば周知であるはずの食害です。

産地擬装や賞味期限切れ位は、必ずしも健康を害するとは限らないものですが、上記の如き物は、確実に私達の体と精神を蝕んで行くものなのです。

賞味期限が一日過ぎただけで会社が倒産するのに、遥かに有害なものを供給されている消費者はもっと怒ってよい筈ですし、アレルギーに代表される慢性病疾患の患者さんのような、食べ物の被害者は大企業を訴えてもよい位です(実際には因果関係を法的に立証するのは困難でしょうし、食べ物だけを原因とするのは無理がありますが、かなりの症数に関わっていることは確かでしょう)。

これらが真っ当な食品であるかのような官民挙げての“擬装”こそ、産地擬装だの、賞味期限改ざんなどが取り沙汰される遥か以前に、糾弾されるべきものであると筆者は疑いません。

2008/02/01

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