“治らなかった例”が決定的に重要

「奇跡の治癒例」を前面に押し出して、人を惹きつけようとするのは、様々な治療分野の常套手段であり、本来治療や治癒を謳えない健康食品等の分野で顕著に見られることは異論を待たないでしょう。

しかし、最早お決まりの紋切り型となった謳い文句には、いい加減飽きが来ている人も多いと思いますので、ここで逆説的に「治らなかった例」の重要性を強調することで、今後の考察を深める一助となるよう、一つ問題提起を行いたいと思います。

当然のことですが、ありとあらゆる疾病を治すことができるようなものは、薬であれ健康食品であれ、この世には存在しません。

アガリクスにもプロポリスにも、はたまた活性水素水は勿論、カイロプラクティックにも、聖なるキムチにも、偉大なるグルのシャクティパットにさえ、そのような力はありません。

奇蹟的な治癒率を誇るものが仮に存在するとしても、私はその奇跡的治癒例を集積して期待感を高めることより、“奇跡が起こらなかった”つまり“治らなかった”事例を積み重ねることの方が、遥かに重要と思えるのです。

もともと“治る”事を前提にして実践したり、施術を受けたり、摂取したりする以上、本来それは治って当たり前のはずで、かかる事例は、安全性や期待した効果との間に開きがあるか等といった点を除けば、それ以上の問題を喚起する必要性はないはずです。

しかし、“治る”ことを前提にしているならば、治らなかった事例は大きな意味を持つはずであり、単に「運が悪かった」という確率論で処理できる類の主題であるはずがないのです。

その治らなかった事例を積み重ね、一つ一つ詳細な分析と統合を繰り返せば、その問題を克服するヒントが得られる可能性が高いですし、より確実に効果を挙げる方法が見つかる可能性もあります。

“信仰が足りなかった”などという悪徳霊感商法の如き逃げ口上は、人の病・健康という重い主題にとっては許されないことなのです。

そもそも、「これでなんでも治る!」という希望もとい誤謬が、人々を混乱させている訳で、ホンモノは治らなかったという事例を明確に示せる所と言えないでしょうか。

よく「治らない例もわずかですが、あります」と予め保険を掛けるように前置きするパターンがありますが、治らなかった事例を本当に真剣に追求している例は、非常に少ないのではないでしょうか。

私にはそれこそが最も重要なことのように思えるのですが…。

2007/04/08

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