食育の未来

2005年に食育基本法が成立するなど、「食」への関心の高まりは、健康に特別な関心を持つ人々だけでなく、政治の分野にも及んで来たようで、喜ばしいことには違いありませんが、長らく食養の世界に関わってきた者にとっては、いかんせん遅きに失した感は否めません。

藤原正彦氏の『国家の品格』が大ベストセラーになった真因が、すでに品格を失った国家に対して鳴らされた警鐘が人々の共感を呼んだためであるように、「食育」という言葉も、既成事実である日本の食文化の崩壊を土壌として、人々に知られることとなったのは皮肉なことです。

さて、この「食育」なる言葉も、多くの食養に関する概念同様に、明治時代の陸軍薬剤監、石塚左玄が『通俗食物養生法』(1898年)の中で、「今日、學童を持つ人は、體育も智育も才育もすべて食育にあると認識すべき」としたのが最初らしく、教育の中での「食」の大切さは遥か昔に説かれていたわけです。

勿論、文部省や学校側も、ずっと給食を「教育の一環」として位置づけてきたわけではありますが、今日の子供たちの荒廃ぶりを見ている限り、その「教育」とやらは、あまり上手くいっていないようです。

梶山公勇氏の『学校給食と子どもの健康』(秀英書房)は、多くの発展途上国では、未だに飢餓に苦しむ人々が大勢いるにもかかわらず、一兆円という膨大な公費を垂れ流した上に、毎年480億円をゴミとして処分しているわが国の学校給食の実態を描き出した好著で、読み進めるにつれ、怒りすら覚えてしまいます。

その肝心の給食の中身がまた問題です。

食養生の素養を少しでも持つものなら、顔をしかめたくなるような内容なのです。

一応、現代栄養学を基にして、理想的な食事にしているつもりなのでしょうが、パンや牛乳といった、食養家が目の仇にしている食品が目に付きます。

給食の献立を考えている栄養士に言わせれば、「これが栄養的に優れているのだ」となるのかもしれませんが、今日の子供たちにアレルギーが加速度的に増え続けている(給食だけが原因とはいえませんが)ことから見ても、給食の献立が本当に健康生活に寄与し、子供たちの健全な発育を促すものなのか大いに疑問です。

現代栄養学を基本にしているため、食品の選択についての考え方が、食養家の理論と合致しないのは致し方ありませんが、本当に大事なことが忘れられているのが気になります。

例えば「咀嚼」です。

今日の子供たちの多くは随分早食いで、咀嚼どころか固形物でさえ、飲み込むような食べ方をしています。

このような食べ方が消化に良くないのはいうまでもありませんが、「咀嚼」については学校ではほとんどその大切さが教えられていません。

もっとも、このような常識的なことは「知っていて当然」なのですが、親が家庭で教えないためなのか、どちらにしろ子供がきちんと咀嚼しない食事を習慣としている以上は、学校で教えるべきものでしょう。

「咀嚼」は脳の血流増加を促すことから、教育に携わる者はもっとその重要性を声高に叫んでもよいと思います。

また、片側の歯ばかりで食べないようにすることも、重要です。

それ以上に大切なことは、「食べ物への感謝」「生命を頂くことで自らが生かされている」ということを食事から学ぶことでしょう。

今時の子供たちは、食べ物は何もしなくても、勝手に食卓に並ぶものと思っているようで、感謝も何もありませんから、ちょっとでも嫌いなものは平気で残します。

食べ物を粗末にするかどうかは、そこに「生命」を感じているかどうかということです。

今日の凶悪犯罪の低年齢化の進行は、命が軽んじられる時代の象徴です。

管理人は道徳の授業などで可笑しな反戦平和を洗脳的手法で教え込む前に、様々な食糧生産の現場を子供たちに教えてあげて欲しいと思います。

野菜を生産する農家の人たちの苦労、例えば、給食で出される野菜がいかに天候や病虫害という栽培の困難を乗り越えて収穫されているのかを教えて欲しいと思うのです。

また、食肉の生産過程をもっと理解させる必要もあるでしょう。

例えば「残酷」であるという理由で、反って「教育上よろしくない」と考えられている「屠殺」という食肉生産過程を教えるべきではないでしょうか。

それは確かに残酷なものですが、単なる猟奇趣味でなく、それを子供たちが知ることは命を考えるために必要不可欠な本当の「心の教育」になるのではないかと思うのですが、どうでしょうか?

さる高名なヨガの先生は、子供の頃、屠殺の現場を見て以来、肉を食べられなくなり、それ以降ずっといかなる肉食もしなくなったそうです。

そのような極端な食生活を子供たち皆に薦める訳には行きませんが、この「自然に」ベジタリアンになったというのが非常に大切なことであり、このような経験を持つことが出来れば、命を軽んじる行いは絶対にしないようになるのではないでしょうか?

管理人の子供の頃は、給食を食べる前に合唱して、「いただきます」と形だけでも感謝を表す一種の儀式がありましたが、最近の教師の中でも進歩主義にかぶれた輩は、「宗教教育であり、学校でこのようなことを行うのは、信教の自由を定めた憲法に違反する」と異常としか言い様がない詭弁を用い、この形式的感謝さえも排斥しようと主張しているといいますから、まったく信じられない話です。

月並みな話かもしれませんが、私たちが文明社会の中で、何不自由ない生活をおくっている同じ地球の裏側では、貧困のために餓死する人々が大勢いるのです。

食べ物を粗末にするなど絶対にあってはならないことです。

ただ、農作業にしろ狩猟にしろ漁業にしろ、自分で苦労を知ることができる自給自足の生活だからこそ、食べ物の有難み、感謝を知ることができるということもあり、今日の都会で、そのような経験をする機会を得ることは困難になっています。

それができない子供たちには少しでも学校教育の中で、そのような機会を与えられることが望まれます。

今日の教育の現場でも、そのような時間はありますが、あまりにも少なすぎると言えるでしょう。

このような大変な状況の中で、「食育」が掛け声倒れに終わることがあってはなりません。

教育者だけでなく、子を持つ親の一人一人が、「食」というものの大切さを考えて頂きたいものです。

2007/02/07

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