宗教と健康産業の類似性

健康産業の世界を見渡してみれば、宗教現象と酷似した世界であることが判るでしょう。

私は必ずしも宗教を否定するものではありませんし、むしろそこから学ぶべきものは多大であると考えているくらいですので、「宗教」という表現よりも“カルト”(狂信的集団)という言葉を用いる方が、ここでは適切なのかもしれませんが、本項では一応、「宗教」という表現を使用することにします。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の形成』において、勃興期の資本主義を明晰に分析したドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、「宗教」を「人々に行動の規範を与えるもの」と定義しています。

この定義に従えば、「〜教」や「〜宗」といった名称を持つ明らかな宗教団体だけでなく、社会主義運動や環境保護運動に至るまでも「宗教運動」として捉えることが可能でしょう。

そして、前述の通り、様々な健康食品の販売グループや健康法の普及団体は、巷を騒がせている新興宗教騒動と酷似しているのです(MLMの集団は極めてこの傾向が顕著)。

宗教が世界を説明する原理を与えることで、人々は生活の中での判断基準と行動原理を確立することになります。しかし、ここからが難しいところで、必然的にあらゆるものをその原理を通して見るようになってしまう為、一つ絶対のものが決まると、それ以外を認めない排他的思考が生まれるのは避けられません。この二者択一に持ち込む善悪二元論を基礎とした思考様式は、知的に貧困な人にとっては非常に分かり易いですし、思考停止・判断停止を許してくれるので、何と言っても“楽”なのです。

“ただ一つの本物”を知ってしまえば、他は自動的にニセモノに分類される訳ですから、残りの真贋を頭を使って判別する必要もなくなります。

全ての宗教がそうであるように、健康食品や健康法の指導者も、自らの実践する理論なり製品なりが、“唯一絶対のもの”であるとか“最高のもの”であると説きますし、信奉者はそれを微塵も疑いません。

しかし、ここでその真偽を云々する前に、その前提として無条件に受け容れられている事柄を再確認しておくべきではないでしょうか?

それは、そもそも「正しいものが一つだけある」という認識が“正しい”のかどうかということについてです。

この場合、

“一つだけ正しい”

“どちらも正しい”

“どちらも間違っている”

の三つのパターンが考えられます。

「神」や「真理」などの主題を扱う宗教については兎も角として、健康法や健康食品においては、“唯一絶対”のものなどあり得ないことは言うまでもないでしょう。

また、そのような“唯一”のものが存在すると仮定して、自らの信奉するものがそうである可能性の低さを考えた事がある人はどれだけいるでしょうか?

例えば、どの宗教団体も、自身の絶対性を説きますが、そのような宗教団体は小さいものまで含めると、何百万か何千万という数に上ることでしょうから、自分が信じているものが唯一絶対のものであるか、または最上位のものである確率は恐ろしい程の低率になるはずです。

自らの信仰とは相容れない他の宗教を信仰している人は、“騙されている”or“真理を知らない”ということになり、ここに「折伏」という半ば強引な布教活動が展開されることになるわけです。

しかし、自分は騙されるはずはないが、他の人は騙されている、或は、本物を見抜けないのだから自分が教えてあげようというのは、何という露骨な差別意識でしょうか。

土台人間など、科学でものを分かったように思い込んでいる無知な存在に過ぎません。

これはどんな賢者でもそうで、宇宙から見れば、私達人間の誰もが無知な存在でしかないことは自明です。古代ギリシャ最高の知性の持ち主であったとされるソクラテスが、「無知の知」という境地に至ったのは当然であったと言えるかもしれません。

結局、科学の如き“理性という名の信仰”を含め、何らかの信仰に凝り固まるのは、無知から来る恐怖を別の無知で塗りこめることで心の平安を得ようとする試みであると言えば言い過ぎでしょうか。

畢竟、他者の群の中に自己を埋没させることが出来ないのが人間の性であり、優越感を感じていないと不安になるのが現実です。初期のキリスト教は「貧しき者のみ救われる」教えであり、それが神との契約でしたが、現代人の感覚から見れば、奴隷という低階層の人々が、僅かな希望を見出し、支配階級の人々に精神面だけでも優越感を持とうとした試みに過ぎません。

私には、布教活動というもの自体、ガムシャラに折伏を繰り返すことで、自己の不安を消し去ろうとする努力のような気がしてなりませんし、その活動によって自分は善人であるという認識を強化するためのものと感じられるのです。

様々な健康法や商品の販売活動も相似形にあると思われます。特にピラミッド型の擬似的階層社会を形成するネットワークビジネスの世界は瓜二つです。

普及活動の成果によって、自己の所属階層が向上していくのもそうですが、何よりディストリビューターの異常な熱意と、目をギラギラさせての「自分は社会に健康に環境に貢献しているんだ」という表情が、新興宗教の信者さんとダブって見えます。

単なる商品の販売活動に過ぎないものが、集団への帰属意識をより強固なものとする為の活動と重なるとき、そこには“折伏”というある種の粗野な“世直し”に近い匂いすら漂ってくるのです。

私は信仰そのものを決して否定するものではありませんし、不可視の存在を意識しながら生きることは非常に大切なことと考えますが、それらを妄信するあまり、排他的になって自らが絶対善であるような異常な行動に出ることは決して褒められた事ではありません。

健康法や関連商品を取り扱う際にも、“誇りと驕りは紙一重”であることをよくよく認識して、常に自問自答しながら、活動していくべきでしょう。

しかし、健康法などを実践する集団が宗教的であるのは当然といえば当然かもしれません。宗教の行の体系の中から健康に良い面のみをピックアップしてきて後に健康法としての理論を与えられ、独自の発展を遂げてきた健康法は少なくないからです(断食もその一つです)。

ルーツを宗教に持つ以上、それらを普及していく集団の行動が類似するのは避けられないのかもしれません。

否定することも無批判に受け入れることも簡単です。

私達が心掛けなくてはいけないのは最も困難な道“中庸”です。

2007/04/18

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