食に左右される私達の運命

易や四柱推命などの所謂運命学(簡単に言うと占いの類ですね)を実践する人の本来の使命は、人の運命をあれこれ鑑定することにあるのではなく、鑑定の結果に対して最良の未来を築く為の対処法を教えることにこそあると言えましょう。

運命を固定的なものとして楽観悲観するのではなく、能動的に運命を変えていこうとする主体的態度こそ人の進むべき道であり、この辺りは、陽明学の泰斗安岡正篤先生の著書『陰隲録を読む』を一読すればよく理解できるはずです。

『陰隲録』とは、中国は明代の袁了凡(えん りょうぼん)という人物が著わした書物であり、内容をかいつまんで御紹介しますと、袁了凡は若き日に、易者から自分の運命を予言され、その後それが次々と的中したことから運命論者となって生きていたのですが、雲谷禅師という高僧から「運命は自分で作るもの」と諭され、それまでの「運命論者」から「運命を自ら変えていく人」となって、陰徳を積み重ねてかつての易者の予言した未来を変えていくという内容です。

ところで、この「運命」というものが「食」の内容によって左右され、運命を転換していく為の非常に重要な要素として「食養」を捉えている運命学の先生方もおられることは、「占いなんて信じない!」という現代人の貴方も知っておいて損は無いかも知れませんよ。

そのような占術家の代表格は、江戸時代の“相聖”水野南北(1760〜1834年)でしょう。

その水野南北が観相を志すきっかけとなった有名な逸話があります。

出牢したばかりの無頼漢・鍵屋熊太(後の水野南北)が、大阪の淀屋橋を渡っていると、ある観相家に呼び止められ、顔を見られた後、「貴公の顔に剣難の相あり、寿命は後一年…」と告げられます。

過去の無頼放蕩を悔い、自らの薄命に慄いた熊太は、仏門に入ることを志し、ある禅寺の門を叩きます。

しかし、住職は弟子入りを許してくれず、一年間、米を食わず、豆だけの生活をしたならば、入門を許そう、と言いました。

観相家の予言では、一年後には自分はいないはずなのですが、仕方が無いので、熊太は一年間豆だけの粗食を続けてみました。

そして一年後、粗食によって壮健になった熊太が、また天満橋を歩いていると、かつての観相家と再び出くわします。

しかし、熊太の顔を見て、観相家は驚きます。

「剣難の相が消えている!貴公は、何か人の命を救うような大きな功徳を積んだのではないか?」と問われ、

「いや、そんなことは何一つしていない。やった事といえば、この一年、白米を一切食べず、豆だけ食べて過ごしたことくらいだ」と答えると

「それだ!その粗食によって、陰徳を積み、相まで変えたのだ!」と合点がいった観相家。

資料に乏しく、この水野南北発心の逸話は、恐らく後人の作と考えられていますが、食による陰徳と運命転換の例として感動的です。

南北が問答形式で著わした書『相法極意修身録』の現代語訳『食は運命を左右する』(玉井禮一郎訳・たまいらぼ出版)より、幾つか食に関する項目を抜き出して見ますと、

運命の吉凶は食で決まる

粗食の者は貧相でも幸運をつかむ

粗食でもときに大食すれば大凶

食事時間が不規則な者は吉相でも凶

子なき相でも食を慎しめば跡つぎを得る

人格は飲食の慎しみによって決まる

家運が尽きていても減食で再興できる

子供の貧相・悪相は親の責任

万善万悪みな食を本(もと)とする

食を慎しめば気が開け、気が開けば運が開く

など、非常に示唆に富む文章が並んでいます。

このような文章から、現代の私達が学ぶべき教訓は非常に多いのではないでしょうか。

運命学を信じない人でも、悪食を続け、心身が衰えてくれば、仕事も勉強も出来なくなり、周りから人が離れていって、結局は運に見放される…という解釈ならば、すっきり理解できるでしょう。

予断ですが、孔子は「怪力乱心を語らず」と述べているものの、易経を五経の中に選定していることからも、易占を「怪しげ」なものとして捉えてはいなかった事が分かります。

江戸時代においても、四書五経(論語・大学・孟子・中庸の四書と、易・書・詩・礼・春秋の五経)を学ぶことが学問とされていたことからも、一昔前までは易は真面目な学問の一分野として扱われていたことが理解できます。

観相学にしても、古くは黄帝内経に見えるものであり、東洋医学における望診と源流を同じくするものであることを知っておいて頂きたいと思います。

2008/02/22

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